2011年2月11日金曜日

小沢氏離党拒否:力量の小ささを感じさせる虚像政治家


自分の政治資金疑惑で、何かと難癖をつけ逃げ回る小沢さんが当然のことながら菅総理の「自主的離党要請」を拒否、政権与党内は処分の必要性を巡って執行部と小沢擁護系議員の間で混乱の溝が深まっている。政権与党内の出来事だけにその影響は計り知れなく、もっと自覚を持った判断をすべきだ。

この強制起訴に関して、小沢さんの考えは、検察審査会の起訴は秘密のベールの中で判断基準がわからない。検察の対応に問題があるというモノだ。

検察審査会が2回にわたり計22人の検察審査員が、補助員の弁護士と検察調書を元に起訴かどうか判断を下すモノで、初めてのケースであるとは言え、検察の起訴、不起訴の判断を国民の目で見直す制度で、一政強制起訴を回避しようと最高裁まで争うなど、一政治家として制度そのものを批判するのは可笑しい。

更に、検察審査会の決定で、党が処分を考えていること自体、健全な民主主義とは言えず、民主政治の発展に打倒ではないと強弁する。

全く逆ではないのか。疑惑だらけで、民意を無視するばかりの小沢さんを守ること自体が民主主義
の発展を阻害するモノである。

小沢さんは、度々「不正はない」「何らやましいことはない」と発言するが、過去の建物取得で週刊誌の報道を名誉毀損で訴え敗訴した例もあるように、資金の集め方にも疑惑を感じている国民は多い。党大会や動画ニュース、本人の全国行脚で「不正はない」と主張しても疑惑は晴れないのが分かっていない。

「不正がない」のであれば、国会の証人喚問に出て証言する方法も政治家として採るべき手段だと思うが、拒否の姿勢のままでは一向に前進はしない。

これらの行動は、自ら疑惑の存在を証明しているようなモノだ。

強制起訴後は、裁判の場で真実を明らかにするので、国会の場での説明責任は必要ないという考えだが、裁判とは別に国民の負託を受けた国会議員であるという特別高度な責任を持っている政治家だ。裁判と国会議員としての政治家倫理は別物と思うがどうだろうか。

一方で政界で実力者であり、小沢さんのようなメデイアがつくり上げた虚像政治家にとっては、常識に反する行動を取られると執行部もその処分に右往左往せざるを得ず、小沢さんを取り巻く議員の行動も注目せざるを得なくなる。

その議員からは「推定無罪」、「処分して無罪になったらどう責任を取るのか」から「法の何処に違反しているのか」が言われている。

検察の起訴と検察審査会の起訴では、本質的に違うのだから推定無罪が強く働くという。一般的に言って有罪判決までは皆推定無罪なのだ。

「処分して無罪だったら執行部はどう責任を取るんですか」と小沢派の女性議員が叫ぶ姿がテレビで映る。裁判だからやってみないと分からないが、今回の事件も無罪の可能性はあるだろう。でも政党としてある程度の処分は示さなければ「クリーンで開かれた政治」を目指す政党ではない。

「法の何処に違反しているのか」と民主党の人は何人思っているのか。政治資金規正法はザル法だから、政治家は知らなかった、任せていたと言えば責任は回避される。でも政治資金規正法の趣旨は「公明正大な政治活動が行なわれているかどうかを国民が判断できる」資料として政治資金報告書の提出が求められているのだ。

使った政治資金ばかりでなく、どう集めたかも重視すべきである。他の国会議員に比べて飛び抜けて巨額な政治資金を持つ小沢さんには、説明する責任がある。

今回の小沢さんの自発的離党拒否判断は、虚像政治家として、力量の小ささを感じさせた。

小沢流選挙はもう御免だし、すでに過去の政治家であることを小沢さんは認識すべきではなかろうか。悪あがきとも思われる行動、判断は評価を落とすだけである。
写真:小沢さんの離党要請拒否と民主党内の混乱を伝える読売新聞 2011.2.11

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