2011年5月22日日曜日

原発の安全確保は、監督官庁、学者、事業者の意識改革から







福島第一原発の事故は、起こるべくして起きたようなモノだ。情報秘匿、トラブル事故隠し、反対意見に対する押さえつけ、東電の横暴、交付金での懐柔、飽くなき安全主張、政策上の低い発電コスト、更には原子村と呼ばれる特定利益集団の形成など、以前から言われていた原発にまつわる悪慣習が、一挙に露わになった。原発の安全確保は、関係者の意識改革が必要だ。

原発導入も、学会、産業界がモタモタしている間に、中曽根さんが予算を取り札束でひっぱたいたという。今まで慎重だった学者や産業界が、その金に群がったのだ。学会でも、あんなオモチャのような米国の原子炉を買ってどうするんだと言う声も挙がったそうだ。その原子炉が福島第一原発の1号機なのだ。

米国の設計をそのまま取り入れたキーターン方式で始まった。我が国のように海岸縁に作る考えが、米国の設計思想に乏しく、今回の津波被害(?)でデイーゼル発電機が損壊し、冷却装置を稼働させることが出来なくなり、「冷却」出来ずメルトダウンが起き、放射性物質を「閉じこめる」コトが出来なくなり、大惨事が起きたとも言われている。

じっくり日本での立地にあった設計を考えるべきだったのだ。原子力三原則に「公開」「民主」「自主」が言われているが、「情報公開」ばかりでなく、この「自主」も大事なのだ。

特に我が国には、至る所に活断層が存在する。大きな活断層が近くにあると、耐震設計に多大な費用がかかる。当然のことながら活断層を細切れにして建設費を抑えようとするのは私企業の常道だ。勿論活断層を見つけるのは大変だ。調査時は判明しなかったが、後から詳細に調べると海底の活断層が、陸地の活断層と繋がっていたコトが分る場合もある。

原発立地の自治体への交付金の存在は恐ろしい。建設後年数が経つと交付金が減ってくる。交付金で成り立っている自治体は、更に原子炉を新設して交付金を獲得するようになる。「麻薬」のようなモノだとはよく言ったモノだ。

浜岡原発停止で、交付金が減り困った自治体が騒ぎ出したのは、まだ記憶に新しい。浜岡原発計画は政治家も大きく絡んで、「泥田に金の卵を産む鶴が降りた」と喧伝されたらしい。

科学に政治が関わってくると変質する。「原子力は安全」で、クリーンで、発電コストも安いコトになる。

菅総理が、東海地震という巨大地震の発生確率が87%にも高まっている反面、津波対策である防潮堤の建設に2~3年かかると言うことで、それまで浜岡原発の停止を要請した。英断か、パフォーマンスかで評価が分かれたが、再稼働出来るかどうか、今後の原子力発電のあり方に波紋が広がった。

地震、津波は天災であり仕方ないと諦めもつくが、原発災害は「人災」の面も大きい。菅総理の判断も含め検証する必要があるが、総理の判断を政治的判断都考えると、なかなか真実には近づかない玉虫色の報告書になる可能性もある。

しかし、原子力産業に携わっている人間は、全員意識改革が必要である。今までの原子村的発想では原発の安全は保てない。

監督官庁を一元化し、政治が係わらない中立での安全チェックが必要だ。官僚が自分たちの思うようになる御用学者の起用も避けるべきだ。

原子力安全・保安院のHPでは、安全確保には石橋を叩いて渡る考え方が必要だと言い、機械の故障、人間のミスを前提にした「多重防御」のシステムが取られているかをしっかりチェックしているという。

そして、現実には起こりえないような事故を想定し、その拡大や影響の緩和を図る対策が取られていることをチェックしているとも言う。

本当にそうなのか。そうだとしたら、どうして今回のような事故が発生したのか。今回の事故は、「現実には起こりえない事故」の範疇に入るのではないのか。それともあくまで「想定外」の出来事なのか。

原子力発電の今後は監督官庁、原発事業者の意識改革が必要なのだ。それに情報公開だ。

福島第一原発の事故対応を見ていると、政府、東電、監督官庁間での情報に隠蔽の疑いがある。お互いに責任をなすり合っている。こんな体制では、原子力は辞めた方が良い。

写真左:資源エネルギー庁、原子力安全・保安院

写真右:東京電力本社

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