2011年9月18日日曜日

忘れてはならない第五福竜丸被曝事件
























アインシュタインのE=mc2の式が原子核を分裂させ、膨大なエネルギーを爆発させることが出来るが分った当時は戦時下で、軍事利用が考えられた。1945年8月には広島に原爆が投下され、9年後の1954年3月には米国がビキニ環礁で水爆実験を行なったが、危険海域から30km離れた海域で繰網中だった第五福竜丸の乗組員23人が被曝した。

当時12歳だった私もこのニュースは覚えている。その後、第五福竜丸は夢の島に雨ざらしで放置されていたが、この事件を忘れてはいけないと保存する運動が始まったことまでは知っていた。

チャンスがあれば一度見たいと思っていたが、新聞で第五福竜丸の記事を読み、18日に夢の島の展示館に行って来た。日曜日でもあり大人から子供まで多くの見学者があり、船体を写真に撮っていた。

第五福竜丸はマグロはえなは漁船で、船大工の技をふんだんに使った大型木造船だが、途中で改造したらしい。この船で太平洋のど真ん中で漁をやっていたとは驚く。

しかし、航海日誌を見ると第五福竜丸の今回の出漁は不運の連続だったようだ。1954年1月22日に焼津港を出港したが、翌日エンジン部品を取りに帰港し再出港、「南に行く」と航路を変更、2月9~12日、はえ縄の大半を失い、3日間懸命に捜索したようだ。不漁が続き17日更に南下、3月1日ビキニ環礁付近で被爆し、アメリカの哨戒機に気を付けながら日本を目指し14日焼津港に帰った。捕獲量は165尾(2700貫)となっている。

被曝した当時のことも当直日誌で知ることが出来る。3時17分、14回目の投網終了30分漂白、1時間後繰網開始。3時30分にピキンユ島で水爆実験、夜明け前なのに非常に明るくなり煙柱があがり、2時間後に爆発灰が多数落下、5時間続いたそうだ。危険を感じてこの海域から脱出したという。操業海域は危険水域から30km離れていた。

しかし、久保山無線長は、何故か被曝したことを打電していなかった。

このビキニ水爆実験は、広島の原爆の1000倍の破壊力があったという。「死の灰」の分析からストロンチウムなど27種の放射性物質が検出され、被災者は放射能症と診断されたが、米国は認めなかった。

1954年9月23日、無線長の久保山さんが亡くなった。「原爆症の被害者は、私を最後にして欲しい」と言い残して。

この事件はアメリカが7億2000万円賠償することで終わったらしい。

3月末から5月にかけて日本中に放射能の雨が降り、京都では8万カウンターを記録した
という。

汚染されたマグロは築地市場の地下深くに投棄され、その量は457トンと言われる。展示館の敷地内にマグロ塚があるが、本来は築地市場に設置すべきであるが、整備中のためにここに建立したと記されている。築地市場の投棄場所で今どうなっているのか。

御多分に漏れず、汚染マグロの風評被害には困ったようだ。今の福島第一原発の事故による各種生産物の風評被害と似ている。

第五福竜丸被曝事件の翌年1955年7月にバートランド・ラッセル、アルバート・アインシュタイン、湯川ら著名人11人が「ラッセル・アインシュタイン宣言」をし、紛争問題解決のため、核兵器でなく平和的な手段を見つけ出せと提言している。

そして、8月の広島での第一回原水爆禁止世界大会へと運動が続く。

米ソは核兵器を減らそうとしているが、世界的にはまだまだ核兵器開発で力を誇示使用としているし、平和利用の原発の事故で我が国は大変な事態になっている。

原爆というと広島、長崎だけでなく、第五福竜丸被曝事件も忘れてはいけない。



写真左:第五福竜丸の船体 船大工の技を結集した大型木造船だ



写真中:第五福竜丸の航路と被災位置 今回は不運が重なり不漁で、危険区域の外30kmで被災してしまった。



写真右:死の灰 3つの大学で分析され、27種の放射性物質が検出された

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