2012年5月19日土曜日

南極越冬の難事業に挑戦し夢を与えてくれた西堀栄三郎博士


鬱蒼とした大木に囲まれた邸宅
博士の設計で山小屋風だ
2012.5.19撮影

南極越冬の難事業に果敢に挑戦し、国民に夢を与えてくれた西堀栄三郎博士の邸宅(東京都大田区鵜の木)を訪ねた。34歳で京大を辞め、品質管理、生産管理の技術コンサルタントとして東京に居を構えたところだ。私も大学の同窓ではあるが年の差は40歳の大先輩にあたる。

西堀栄三郎博士と言えば、何と言っても第一次南極越冬隊長として、国民に大きな夢を与えてくださったことだ。この未知の難事業を西堀博士なしでは到底かなわなかったかもしれない。


その南極探検に夢を抱くようになったきっかけは、11歳のときに京都・南座で白瀬中尉の南極探検隊の帰国報告を聞いたことだったそうだ。そして43年後にその夢をかなえることが出来たのだ。

南極観測隊長を務めていた永田武先生の研究室に「俺を使ってくれ。必ず役に立つ」と尋ねてきたと日本経済新聞で連載中だった永田先生の「私の履歴書」で読んだ記憶がある。しかし、これはその後の話で、最初は誰かいい人材はいないかと永田先生がいろんな人に相談していたら、「西堀しかいない」という話になったらしいのだ。

越冬も宗谷が昭和基地を離岸するギリギリまで決まらなかったそうだ。条件として「通信の確率、食糧、燃料の十分な確保、隊員の身の安全が整備されるまで」が挙げられていたという。西堀博士は品質管理の専門家として力を発揮したのは当然だ。

もう一つ思い出すのは、越冬が決まり昭和基地を離岸した宗谷だったが、海洋に出る前に南極の厚い氷に閉じ込められた。宗谷の砕氷能力では脱出は無理で、松本船長は船での越冬も覚悟したと何かに書いてあったのを読んだことがある。

当時政府はアメリカに救援を頼んだ。米国海軍の砕氷艦グレイシャー号が救援に向かったが1週間かかる。そのうちにロシアの砕氷艦レーニン号が近くにいて、宗谷救援に駆け付けた。厚い氷を割って宗谷に向かってくるレーニン号、レーニン号の砕氷の後を海洋に向かう宗谷の映像は報道された時は興奮したものだ。

思えば、昭和基地の場所は接岸不可能と言われ、外国の観測隊は敬遠していたところだ。そんな場所にもかかわらず、果敢に難事業にあたり、その成功は若者に夢を与えた。

越冬中は、若い隊員の研究にも気を配っておられたそうだ。若い隊員が研究に行き詰まっているのを見て、ソッとヒントをメモし机の上に置いておくようなこともあったそうだ。その隊員が後日談で書いていたのを読んだことがある。未知の領域での西堀博士の存在は大きい。
部屋はこじんまりとしているが、手作り
の暖炉、拘った台所と食堂の間のハッチ
今はマンションでは主流の設計だ
邸宅もこじんまりしているが、手作りの暖炉、台所と食堂の間のハッチにもこだわったという。そして、この偉大な技術者でも書斎を持っていなかった。コタツや食堂のテーブルで勉強をしていたという。その姿を見て子供は育ったのだ。

今の英才教育も、子供部屋を持たず家族がいるところで勉強することが理想らしい。

「問題なき所に進歩なし」の色紙が飾られていた。西堀博士81歳の時のものだという。これは品質管理の基本的考えなのだ。

雪山讃歌のオリジナル歌詞
もう一つ、「雪山讃歌」の作詞でも有名だが、オリジナル歌詞はダークダックスの歌詞とは違う。

1 吹雪のする日は ほんとに辛い
  アイゼンつけるに 手が凍えるよ
    (リフレイン)雪よ岩よ我らが宿り 俺たちゃ街には住めないからに
これが10番位まで続くのだが、我々が知っているのはリフラインが先頭に来た唄い出しだ。だからヒットしたのかもしれないと管理人のご子息と笑いあった。

「やってみなはれ」、「問題なき所に進歩なし」は西堀博士の名言だ。

やってみるにはチョッと臆病になりかけているし、問題ばかりあって解決法が見つからない。そんな自分を反省する機会だった。

西堀博士 81歳の時の色紙


1 件のコメント:

真人 さんのコメント...

南極の氷に閉ざされた宗谷の救援に向かったソ連の砕氷船をレーニン号と書きましたが、正確にはオビ号ではなかったかと思い、訂正します。