2013年4月29日月曜日

新島襄と八重:キリスト教に支えられた偉大な教育者と自由奔放に生きた妻

京都で知り合い、襄32歳、八重30歳で結婚
襄は八重のことを友人に「彼女は、見た目は
美しくないが、生き方がハンサム」と言った。
新島襄旧宅展示資料より

新島襄と八重:キリスト教に支えられた情熱的教育者・宗教家と自由奔放に生きた妻? 
NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映中だが、それに便乗して群馬県安中市は「新島襄旧宅」があることから、「新島襄と八重 ゆかりの地」として売り出し中で、久しぶりに見学に行ってきた。

新島襄旧宅
2013.4.27
新島襄旧宅と言っても両親が住んでいたところで、新島襄は1865年、21歳の時国禁を破り函館からアメリカへ渡った。高校、大学、神学校に学び、1874年に10年ぶりに帰国。横浜に着いた3日後に両親の待つ安中に帰ってきた。そして3週間後には伝教のために神戸に向かったのだ。

たった3週間の滞在であったが、お寺で講演会を開催し、このとき進歩的な商人であった湯浅次郎を始め多くの人が熱心に新島襄の話を聞いたそうだが、湯浅はその後の新島襄の活動に物的援助を惜しまなかった。

1875年に京都で、8名の学生で同志社英学校を始めた。このとき、会津出身の砲術家山本覚馬(八重の兄)と八重と知り合いになる。英学校設立には覚馬の援助があったようだ。

便覧舎跡
3000冊の古典、新刊本を集めた日本
最古の私設図書館
大火で建物は焼失し、碑だけが残る
その後、安中では湯浅次郎(県会議員、国会議員を経て同志社設立に尽力)が日本最初の私立図書館「便覧舎」を設立し3000冊の古典や新刊書、新聞雑誌類を無料で貸し出した。

そして便覧舎で湯浅次郎ら30人に洗礼を授け、安中キリスト教会がスタートした。新島襄記念会堂として文化庁の登録重要文化財に指定されている。一度室内管弦楽を聴きに入ったことがあるが、重厚な気品のある建築物である。

京都での出会いから、新島襄32歳、八重30歳の時、結婚した。

新島襄が情熱的な教育者であることは、旧宅に掲げられた資料の「自責の杖」から知ることが出来る。英学校で2クラスを合併することになった時、上級組から反対のストライキがあった。新島襄は、「今、学校で問題になっているのは、生徒や教師のせいではなく、すべて校長である私の責任だ」と言って自分の手を杖で何回も強く叩いたそうだ。杖は折れていた。

自責の杖
新島襄旧宅展示資料より
今、学校で不祥事が起きると、校長を始め教師や教育委員会は隠蔽工作をし、世間から不信の目で見られている。「私の責任だ」と言う校長はいない。教育家ではなく職業としての教師なのだろう。

八重も「女だてらに砲術か」と批判され、クリスチャンとして迫害にも屈せず信念を貫いた。結婚後は新島襄の偉業の継承、日清、日露戦争での看護活動、茶道家として自由奔放に生き抜いたのだ。

新島襄旧宅で配布されていた資料「新島八重について」によると、新島襄は友人に八重のことを「彼女は見た目は美しくないが、生き方がハンサムだ」と書き送ったそうだが、納得がいくはなしだ。

今から考えても、最高の褒め方ではないか。

同志社の設立を待たず47歳で他界したが、その志は教え子が受け継いだ。新島襄の生き方は、どれをとっても無駄のない生き方と感心する。

新島襄旧宅を初めて見学したのは、40年ほど前だ。その当時は雨戸はいつも閉まっていて、「ご用の方はこのボタンを押してください」という張り紙がしてあった。ボタンを押すと、カタカタ歩く音がして年配の女性が現れ、「今すぐ開けますから」と雨戸を開けてくれた。

27日は連休中であったが、管理人さんが「今日は、今までで109人。普段は1日200人ほどの見学者だ」という。いつぞやの新聞で、NHKの大河ドラマが始まって見学者は10倍になったという。

安中キリスト教会 幼稚園が開かれているときは見学
出来ないが、土曜、日曜は午後から見学できる。  
2013.4.27
「安中は文教の町」だ。今、「新島襄と八重 ゆかりの地」、「安政の遠足」(5月12日開催)の幟ははためいている。

参考資料 「まんが安中の歴史」 安中市教育委員会 1993/3
      「新島八重について」 新島襄旧宅配付資料


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