2016年5月10日火曜日

熊本城は復旧か、倒壊か:文化財を通して熊本地震をどう歴史に残すか

熊本のシンボルである熊本城を復旧するか、倒壊か。文化財を通して熊本地震をどう歴史に残すかの難題に突き当たっていないか。

今回の熊本地震は、従来の地震と違って浅い震源で1000回以上も地盤を揺らすために被害も甚大だ。生活を脅かす家屋の倒壊、損傷、仕事場を失う工場、会社の倒壊、損傷の被災状況は悲惨なものだが熊本城をはじめ文化財の損壊も大きいようだ。


観光資源として熊本城は熊本にはなくてはならない文化財だろうが、その復旧には相当の年数と費用が掛かるという。そこまでして復旧する必要があるのか。

築城後、幾多の災難に遭い計画的に復旧事業を実施しているようだが、築城当時の材料、技術に新しい技術を加えて復旧して意味があるのか。

時の自然災害に耐えられず倒壊するのも歴史ではないのか。「平成28年熊本地震で倒壊」も立派な歴史なのだ。復旧、再建した熊本城に歴史的意義は薄くないか。

東京勤務時代、昼休みに江戸城本丸跡地に良く行った。

確か、11世紀に江戸氏が館を建てたのが始まりとは始めて知った。家康が入ったときは小規模で荒廃した城だったが、太田道灌が1603年から江戸城の拡張を始めたらしい。

私の住んでいる近くの東京都・大田区馬込付近は土地の起伏が激しく太田道灌が江戸城の候補地として挙げていたことが分かっているが、何が原因か分からないが断念したという。この辺は九十九と言われており100に1つ足らなかったためなのか。

その江戸城も天守閣が何回も作り直された。慶長度天守、元和度天守、寛永度天守と言われたそうだが大火で焼失した。今は皇居東御苑として公園になっている。
天守閣の再興はしなかったそうだ。焼失後は天守台の石垣、前田家寄進の台座が残っている。

何故、再興しなかったのか。そこに保科正之という政治家(?)の偉大さが分かる。

被災した人たちの救済、江戸の町の再建が先で今は天守閣再建の時ではないという。さらに戦国の世は遠く、天守で諸大名を威嚇する時代ではないと考えたのだろう(江戸城再建、NPO法人「江戸城天守を再建する会」HPより)。

新聞報道では熊本も倒壊、破壊された文化財の復旧が問題になっているが、保科正之のような政治家が出てこないところに政治の貧困が現れていないか。

また、奈良県を見ると遠い時代の遺跡などが発掘調査で明らかになっている。そういう歴史的な遺跡がどうしてなくなり、宅地開発など街作り犠牲になり地下に埋まったのか。火山噴火や自然災害の結果だろうと思うが、それも歴史なのだ。

平城京遷都後、藤原不比等と対峙した長屋王が住んでいた邸宅が発掘調査されたが、1980年代にデパート建設予定で奈良文化財研究所が発掘調査し貴族邸宅跡が発見され、発掘物の木簡類等から長屋王邸と分かった事例があった。

しかし、地元や研究者の反対に遭いながら遺跡は破壊され、イトーヨーカ堂奈良店として利用されているらしい。歴史が分かるのは一角に記念碑が建っているからだ。

発掘跡を残し、コンピューターグラフィックスで当時の長屋王邸宅を再現する手もあっただろうが、スーパーの方が地域社会に貢献すると企業家や政治家や役所は考えたのだ。

長屋王の歴史的意義は何だったのか。破壊することも歴史なのか。


文化財保護は難しい。自然災害で倒壊、破壊されるのも歴史なのだ。繰り返す熊本地震の被害の歴史を残すことも重要なのではないか。作り直しに歴史的意義を感じないが、地方経済はそうはいかないのだ。

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